連休の中日(12日)、千葉県立美術館に浅井忠の展覧会を観に行った。
千葉県立美術館の開館50周年記念特別展とのこと。浅井忠は幼少時代を千葉県佐倉市で過ごした。その縁で千葉県立美術館では、作品の収集に力を入れている。
ちょうど、午前11時から学芸員によるギャラリートークが開催されていたので、1時間ほど説明を聞いてみたら面白かった。浅井忠の名前は世間ではそれほど知られてはいないが、近代洋画の先駆者としての功績は大きい。
ギャラリートークの説明は、今から150年前の明治時代初期。工部大学校(東京大学)の工部美術学校から話が始まった。
工部美術学校にイタリアから招かれていたフォンタネージが帰国し、後任の先生に反発した浅井忠たち11人は工部美術学校を辞め、「明治美術会」を結成する。そこにフランスで印象派を学んで帰国した黒田清輝が合流するが対立が起こる。結局、黒田清輝の「白馬会」と浅井忠の「太平洋洋画会」に分裂してしまう。
工部美術学校については、朝井かまての小説「白光」で取り上げられている。
本書は日本初のイコン画家の山下りんを主人公としている。
山下りんは浅井忠と同時期に工部美術学校に席を置き、聖像画制作を学ぶためにロシアに留学した、我が国の最も初期の女性洋画家。
山下りんが工部美術学校へ入学をお願いするシーンで、以下の記述がある。
「りんの申し入れに、生沼はとまどいを隠さなかった。
「工学寮の美術学校が、おなごを受け容れるのか」
すでに入学を許された男子学生は、画学と彫刻の両科で五十数名だそうだ。中丸の他は小山正太郎や松岡寿という見知った面々、そして浅井忠や五姓田義松、山本芳翠、高橋源吉といった名を耳にした。」
黒田清輝は印象派の「新派」と称され、それ以前の浅井忠たちは「旧派」、しかも全体的に絵が茶色く地味なので「ヤニ派」と蔑まされた。
たしかに浅井忠の絵は地味だが、例えば、今回展示されている若き日のデッサンはとんでもなく巧い。しかも明治10年ころに描かれたものなので、学芸員の説明によれば、日本に鉛筆工場ができたのが明治20年頃というから、フォンタネージの指導のもと、舶来物の貴重な鉛筆で書かれたデッサンには魂がこもっている。
その後、浅井忠は1898(明治30)年に東京美術学校(東京芸術大学)の教授となり、フランスに留学。帰国後は京都高等工芸学校(京都工芸繊維大学)教授となり、さらに聖護院洋画研究所(関西美術院)を開いて安井曽太郎、梅原龍三郎などを育てた。
この展覧会では、水墨画、デッサン、水彩画、油絵、さらには日本画や工芸、図案など、浅井忠の作品は多岐にわたる。有り余る才能に恵まれた画家であったことを物語っている。
しかし、残念なのは、浅井忠を象徴させるような絵がはっきりしないことだ。つまり、「浅井忠の絵」だ。
黒田清輝には独創的ではないものの「湖畔」などの絵を残し、世間に知れ渡っている。
浅井忠も東京国立博物館に「春畝」が所蔵されているが、浅井忠の功績から考えれば、もっと世に名前が知れ渡って評価されるべき画家ではないだろうか。
千葉県立美術館の学芸員のわかりやすく丁寧な説明は、浅井忠を再評価するには十分であった。これをどう広めていくのか、そこが難しいのだろう。
一方で、浅井忠の育てた弟子たちは世に名を残している。
そう考えれば、浅井忠は教育者として美術界に輝かしい実績を残したといえる。
絵とは実に不思議なものだ。