「雑誌、書籍、新聞の仕事」清川泰次記念ギャラリー

 世田谷区立美術館には分館が3つある。
 「向井順吉アトリエ館」、「宮本三郎記念美術館」そして「清川泰次記念ギャラリー」である。
 それぞれの画家が世田谷区内にアトリエを構えていたという理由から、アトリエをそのまま世田谷区美術館の分館として一般に公開している。
 「清川泰次記念ギャラリー」では、3月9日まで「清川泰次 雑誌、書籍、新聞の仕事」が開催されている。たまたま、三軒茶屋まで行く用事があったので、少し足を延ばして寄ってみた。

 清川泰次は画家として活動するかたわら、雑誌や書籍、新聞などの仕事にも携わり、刊文芸誌『群像』(講談社)の表紙に、油絵具を用いた色彩豊かな面や線による抽象画を提供するなど、独特の雰囲気をもつ絵を描く。今回の展示もどこかで目にしているような気がする絵ばかり。

 世田谷区美術館の分館となっている3人の画家。
 向井順吉は弦巻の閑静な住宅街、宮本三郎は「自由が丘」駅から徒歩圏内。清川泰次は成城学園前の高級住宅街。
 それぞれ憧れの住宅街のなかにアトリエを構えている。
 向井順吉と宮本三郎には共通点が多い。
 向井順吉は1901年生まれ、宮本三郎は1905年生まれの同世代である。二人とも浅井忠が創設した「関西美術院」で学び、戦時中は戦争画を描いた。その後は、向井順吉は民家を描いて評価を得た。また、宮本三郎は優れたデッサン力により、その名を冠した「宮本三郎デッサン大賞」が設けられている。

画家には二通りある。

 生きているうちに評価される画家と亡くなってから評価される画家だ。
 前者は、例えば今回取り上げている世田谷区美術館分館の3人の画家。後者はゴッホを代表に、例えば最近になって再評価されている田中一村など。
 ゴッホの「黄色い家」は有名であるが、けっして豪邸とはいえない。田中一村に至っては奄美大島のあばら家で人生を終えた。少なくともコンクリート打ち放しの外壁で天井画高く陽当たりの良いアトリエではない、

 今回、「清川泰次記念ギャラリー」を訪れて、これで世田谷区美術館の3つの分館に足を運んだことになる。3つの分館の共通点は来訪者が少ないということ。たまたまかもしれないが、足を運んだ時には閑散としていた。もしかしたら、この分館に興味を持つのは世田谷に縁のある人だけなのかもしれない。残念ながら、全国津々浦々からわざわざ足を運んで観に来てくれているわけではなさそうだ。

 絵画にはストーリーが必要だ。

 世田谷の高級住宅のアトリエで描かれた絵よりも、例えば奄美大島の貧しい暮らしのなかで描かれた絵の方が、庶民には愛されるのかもしれない。
 けっして貧しければ良いというものではない。
 しかし、苦労という点においては、金銭的な苦労が最もわかりやすく、共感しやすい。
 絵からは苦労を読み取ることはできないが、絵が出来上がるまでのストーリーになかに苦労が宿る。

 なんとも絵とは不思議なものだ。

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