「国宝」吉沢亮主演

 大阪市立美術館、奈良国立博物館、京都国立博物館のそれぞれの国宝にまつわる展覧会を見て、最後に映画「国宝」を見た。

 この映画はたぶん日本の映画賞を数多く受賞するだろうし、吉沢亮の代表作になる映画であろう。
 上映時間が2時間55分と長い映画であるが、まったく飽きさせない。見終わった後も余韻の残る良い映画だ。

 大阪市立美術館の「日本の国宝展」、奈良国立博物館の「超国宝展」、京都国立博物館の「日本の美のるつぼ」と3つの国宝にまつわる展覧会を観て回ると、国宝というものがどういうものかなんとなくわかってくる。 
 とにかく古いということが重要。
 そもそも大昔には現存する国宝以上のものが、その時代ごとに数多く存在していたはず。しかし、長い時間が過ぎれば盗難にあったり、様々な理由で破損や逸失してしまう。そのなかで、運よく現代まで形を残すことができたものだけが国宝と指定され、手厚く保存されている。

 この映画「国宝」でも、結果的に主人公は人間国宝となるが、それは周辺の人たちに迷惑をかけ、助けられ、そして運よく生き残った結果として描かれている。それは間違いなく壮絶な生きざまのうえに成立しているものなのだ。
 つまり、人間国宝は生まれ持っての「血筋」だけでは成立しないということ。
 極端にいえば「血筋」は国の宝ではない、ということになる。

 歌舞伎は庶民の文化である。能とは違い、歌舞伎は貧しい階層から支持された。所詮は河原乞食なのだ。
 どういうわけか現代では高級な文化になってしまっている。
 江戸時代から明治にかけて輸出品の梱包材として使われた娯楽品の浮世絵が、海外でゴッホなどのパリの芸術家に影響を与えて評価が高まる、やがて日本においても高級な文化に変身してしまった。悪所の娯楽であった歌舞伎が、芸術として高級なものになってしまったのもその影響があるのだろう。

 現代の「血筋」に守られた若き歌舞伎役者たちが、テレビのバラエティ番組に出ている。
 厳しいことを言えば、このタレント歌舞伎役者たちは、少なくともわが国の宝ではない、と思う。
 タレント歌舞伎役者が他の人には真似できない生きざまを芸に捧げて、自分自身の芸を確立させ、それをわが国の「宝」として認めさせることを、この時代に要求するのは酷でしかない。

 なぜこの映画の主演は吉沢亮なのだろうか?

 ネットニュースによれば歌舞伎を一から習ったという。その割には心に響く歌舞伎役者の演技であった。さすが、厳しい競争の環境のなかで活躍している俳優である。
 この映画で歌舞伎の技術をリアルに見せたいのであれば、血筋の確かな歌舞伎役者を主演に抜擢するべきであっただろう。
 しかし、監督の李相日は、その選択肢を選ばなかった。
 つまり、この映画の主演を務めるだけの演技力を持ち合わせた歌舞伎役者はいない、と判断したのであろう。

 なぜこの映画では歌舞伎のなかでも女形の役者に焦点をあてたのだろうか?

 この映画の冒頭、江戸時代に幕府から風俗を乱すという理由で女役者が禁止され、その結果として女形が誕生したとの説明からストーリーが始まる。国の宝である女形は、技能的な積極的な理由ではなく、妥協の産物なのだ。

 原作者の吉田修一はこの映画のキャッチフレーズとして、「100年に1本の壮大な芸道映画」と評している。
 歌舞伎の歴史は17世紀の初めに出雲阿国が始めたものだといわれる。飛鳥時代の仏像に比べれば歴史はかなり浅い。
 この映画が100年に一度の作品であれば、次にこの映画を超える芸道映画が公開されるのは100年後になる。

 100年後に歌舞伎の世界はどうなっているのだろうか?

 いまと同じように男性の歌舞伎役者だけで伝統芸能を公演しているのだろうか。
 そう思うと、歌舞伎の「人間国宝」に求められているのは、仏像の保存と同様に、いまの歌舞伎の形を壊すことなく、そのまま保存し続けることなのだろうか。

 この映画は深い。
 吉沢亮と横浜流星という人気俳優を起用しながら、見る者にいくつかの重い問いを投げかけている。さすが吉田修一の原作だ。

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