東京都美術館で「田中一村展」を見た。
神童と称さされた幼年期の水墨画は、信じ難いほど完成度が高い。
絵の神様は惜しみなく才能を一村に与えたのだろう。
しかし、神様が一村にギフトしたのは写実の才能だけだった。
東京美術学校に東山魁夷などと動機で入学しながらも2か月で退学し、在野で絵を描くことを選択する。
その後、青龍社展に入選するものの川端龍子と絶縁する。その後は日展などに出品するが落選が続き、50歳を境に中央画壇との縁を切り、奄美大島に渡る。
奄美大島で絵画制作を続け、個展を開くことを夢見ながら、神童と称された一村は69歳で孤独な死を迎える。
しかし、没後に一村は奇跡的に再評価される。絵の神様は沈黙しながら見守っていてくれたのだ。
奇跡に関しては、11月に放映されたNHK鹿児島の「ザ・ライフ 無名 田中一村に魅せられた男たち」で詳しく紹介された。
一村の没後、南日本新聞社の記者が偶然、一村の絵と出会うことによって、昭和54年に名瀬市で三回忌として「田中一村画伯遺作展」が開催される。
そして、翌年、NHK鹿児島のディレクターが一村に魅せられ、「幻の放浪画家 田中一村」を放映した。反響は広がり、昭和59年にNHK教育の「日曜美術館」で「黒潮の画譜~異端の画家田中一村~」が全国放送され、一村の人気は確立された。
田中一村は「日本のゴーギャン」と評されることもあるが、どちらかといえばゴッホに似ているように思う。個展を夢見ながら、生前は評価されず、没後に人気が出る。
両者とも心を掴まれるような絵画であることは間違いないが、たぶん、その生き方に共感する部分が強いのではないか。
一村を再発掘した南日本新聞社の記者が取材ノートに残した言葉が印象的だ。
「泥を食った人間でないと蓮の花の美しさは分からない。現世の泥を食った人間はすべて一村と向かい合える」
誰でも少なからず現世の泥を食って生きている。だから一村の絵が心に沁みるのだろう。