「英一蝶展」サントリー美術館

 サントリー美術館の「英一蝶展」に行った。
 副題として「風流才子、浮き世を写す」とある。
 狩野派で本流の絵の技術を学びながら、市井の人々を描写した独自の  風俗画を生み出した絵師。

 英一蝶については、葉室麟の小説「乾山晩愁」(角川文庫)のなかで、「一蝶幻影」として短編小説を取り上げている。
 三宅島に流罪となった朝湖(一蝶)が11年の歳月を経て、58歳になってようやく江戸に戻る途中、船中で一匹の蝶を見たことから英一蝶と雅号を変えたとしている。そして、最後に以下の一文を添えている。

「あるいは、蝶が群れ飛ぶような元禄の世から一人取り残されたという思いを 一蝶 という名にこめていたのかもしれない。」

 北斎の浮世絵はゴッホに影響を与えたという。
 たしかに北斎の浮世絵には独創性が認められる。
 しかし、北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」だって、突然描かれたわけではない、墨田区のすみだ北斎美術館で今年の夏に開催された特別展「北斎グレートウェーブ・インパクト ―神奈川沖浪裏の誕生と軌跡―」では、どのような背景でこの絵が誕生したのかを丁寧に説明していた。波の形は他の絵師の波の絵を参考にしていたことが良くわかる。

 つまり、どんな天才もある日突然独創的な絵を生み出すというわけではない。他の絵を参考にしながら独自の絵を作り上げているのだ。

さて、英一蝶。

英一蝶が活躍したのは元禄年間(1688~1704年)。
 葛飾北斎が活躍する100年前。尾形光琳と同世代。
 少し時代を先取りし過ぎたのかもしれない。
同じ浮世絵絵師の歌川国貞が私淑していたことが、この展覧会で説明されていた。
 生き生きとした人物描写とユーモアあふれる視点は、時間差はあるものの北斎漫画に通じる。これは、狩野派仕込みの絵師としての確かな腕前があったからこそ実現したのだろう。

 独創性という観点からいえば、北斎も英一蝶をリスペクトしたのではないだろうか。
 とくに日本画の教育は昔から、先人の作品を模倣して技術を身につけることを基本とした。実に合理的な教育方法といえる。
 模倣して、その先へ進化する。後に次ぐ者たちもそうやって先陣を越えていく。

 英一蝶も後の絵師たちに模倣され、ARTの進化の踏み台となり、歴史に名を残したのだろう。